いのちよりも大切なもの 星野富弘
じつは、聖書をひらくのには、ずいぶん抵抗を感じていました。
『あいつはくるしくて、とうとうキリスト教という神さまにまで、すがりついたのか…。』と、
まわりの人たちに思われるような気がしてならなかったのです。ですから、聖書を
ひらくのに、自分でもいろいろな理由を考えてみました。歴史の勉強になる…。
たいくつしのぎ…。先輩の好意をむだにしないため…。
でも、ほんとうの気もちは、自分がいちばんよく知っていました。黒い表紙のその
1さつのなかには、あのそまつな寮の食事に感謝できるように、米谷さん(大学時代、
寮の食堂でよく同じテーブルについた先輩の一人で彼は、いつもお祈りをしてから
食事をしていた。その敬虔な姿にはいつも心ひかれた)をかえたみたいに、わたしを、
なんとかしてくれるものがあるような、ひそかな希望があったのです。けがをして、
まったくうごけなくなり、気管切開をして、口もきけなくなったとき、そういう日が、
いく日もいく日もつづいたとき、わたしは自分のよわさというものを、しみじみと
知らされました。
わたしは体力に自信があったため、いつのまにか、からだをうごかすことに
よって、なんでもできると錯覚していたようでした。自由にしゃべれたため、
ことばで自分の心をごまかし、いつのまにか、それがほんとうの自分だと、
かんちがいしていたようでした。
しかし、うごくことも、しゃべることもできずに寝ている毎日は、おおっていた
かざりを、すべてはぎとられた、ほんとうの自分とむきあわせの生活でした。
ほんとうのわたしは、つよくもなく、りっぱでもなく、たとえ、りっぱなことを思っても、
つぎの日には、もういいかげんなことを考えている、だらしないわたしだったのです。
きたえたはずの根性と忍耐は、けがをして1週間ぐらいで、どこかにいってしまいました。
『星野さん、ちきしょうなんて、いわないでね。』
あるとき、わたしの治療をしていた看護婦さんが、かなしそうな顔をして、いったことがあります。
『えっ?…。おれ、ちきしょうなんて、いいましたか?』
『あら、いまもいったわよ。星野さん、よくいってるわよ。』
わたしのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分のことばに、すこし
気をつけてみることにしました。
すると、どうでしょう。わたしは、しょっちゅう 『ちきしょう』 といっていることに気づきました。
『今日は天気がいいなぁ、ちきしょう。』
『ちきしょう、腹がへった。』
『今朝は、いい気分だ、ちきしょう。』
などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに 『ちきしょう』 を口ばしっていたのです。
しあわせな人を見れば、にくらしくなり、大けがをして病室にかつぎこまれてくる人がいれば、仲間ができたような
気がして、ほっとしたり、ねむれない夜は、自分だけがおきているのがしゃくにさわって、母をおこしたり…。
熱がでれば大さわぎをして、わたしのまわりに、先生や看護婦さんがたくさんあつまってくるのにさえ、優越感を
感じるような、なさけない自分とむきあわせの毎日だったのです。
おみまいの人も毎日のようにきてくれて、わたしを、いろいろとはげましてくれました。その人たちの気もちは、
とってもありがたく感じたのですが、心の底に鉛のようにおもくたまっているさびしさや不安を、とりのぞいては
くれませんでした。たしかに、そのときは明るい気もちになり、勇気がわいてくるのですが、おみまいの人たちが
かえってしまえば、やはり、いつものさびしいわたしに、もどってしまうのでした。それどころか、まえよりいっそう、
さびしくなってしまうときもあったのです。
人間が人間をなぐさめることのむずかしさを、しみじみと思いました。
聖書をひらいていくうち、こんなことばが目にはいりました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて
あげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイ11章28〜30節)
生まれてから、けがをするまで、わたしは、どのくらい、うれしいことがあったでしょうか。うれしくて、うれしくて、
しかたがないとき、そのよろこびを、だれに感謝していたでしょう。
反対に、つらいこともたくさんありました。でも、そのつらさや苦しみを、心をうちあけて話せる人がいたでしょうか。
もちろん、やさしい父や母がいました。いえば、たいていのことは、かなえてくれました。でもそれは、小さいころの
ことです。大きくなってからは、父にも母にも、友だちにもいえないことが、たくさんありました。
天井をむいて寝ていると、どうしようもないさびしさが、おそってきます。
そんなとき、片腕でもうごいたら、そしたら、どんなにらくになれるだろうか、と思いました。うれしいときに感謝し、
くるしいときに名をよぶ人がいたら、どんなに心づよいことでしょう。
聖書のそこのところを、何度も何度も読みかえしているうちに、どういうわけか、おもい心のなかに、あたたかな
ものが、わいてくるような気がしました。
『重荷を負ったそのままで、わたしのところにきなさい。』 というキリストという人が、いままであっただれよりも、
大きな人に思えました。
わたしが、けがをすることなど、夢にも思っていなかったずうっとまえから、神さまはわたしのために、このことばを
用意してくれていたのではないかと思いました。
聖書のなかに書いてあるイエス・キリストという人が、わたしをだきあげて、わたしのいうことを、やさしくきいて
くれるような気がしました。 |
|
|
|
文・詩画 ほしのとみひろ
1946年群馬県に生まれる。キリスト教の信仰に裏打ちされた、人間の生への深い想いを自然の
風物に託して描く、詩画や随筆の創作活動を続けている。不慮の事故で、首から下の自由を失い、
口に筆をくわえて描かれた詩画、多くの人に励ましを与えている。本文は、『かぎりなくやさしい花々』
偕成社発行より転載。 |
|
|
|
|
|